拝佛

毎月1日、15日Extendedお経Day


朝昼晩と3度、般若羅波多蜜経などを
10メートルはあろうかという木造の世音観音菩薩の前で…ひたすら念じ続ける


拝仏
しかしこの観音菩薩様、実はあまりなのだ。
大きくて立派だが、木材がまだまだ新しく、重みというか、臭みというか、深みを感じない。明らかに新しく、なにか俗な感じがしてしまう。
お経を唱える際には何度も拝佛をする。
全身地面に付けてお辞儀を三度、これを三問訊(サンウェンシュン)と言う。
皆は精神誠意、地に手足をこすりつけて、拝佛をするが、
自分は当初からこれに抵抗感を感じている。
失礼にならないようお辞儀はできるが、全身を捧げる(?)ことはなかなかできないでいた。いろいろと挑戦した。折衷策として、軽くお辞儀をしたり、又は深いお辞儀をしたり。しかしそれでももちろんお辞儀をせずにはいられない。一度、皆が拝佛をしている中、一人立ち続けたことがある。そうすると、一人立っている自分は、皆を見下ろす格好になってしまう。 意図せずともどうも傲慢に写るのだ。ただ同様に拝佛もまだできない。日本風に手を土に付け、深くお辞儀をするにとどまっている。


これはただ観音様だけのせいでもなさそうだ。
礼を尽くすのならまだしも、全身を持って観音像を拝むことはなかなかできない。ここへは学習しに来たのであって、未だ仏教徒ではないからでもある。
形だけで済ませることもできるが、これは何か信仰というものを軽んじてしまうような気がする。かと言って自分はたとえ信徒であってもできるかどうかわからない。 


天邪鬼
以前アメリカでコンサートで国家斉唱があった時も会場で一人立たなかった。音楽・娯楽にに政治を持ち込むのに対する抗議のつもりだったが、いこじを張るのも大変、後で注意された。


偶像
ちなみに釈迦無尼(仏陀)は自らの肖像、偶像を弟子達に作らせることを禁じた。
仏像が作られ始めたのは、滅後数世紀後のことである。古仏教の彫刻では仏陀の変わりに車輪の形をした法論が変わりに使われる。まだ少ししか分かっていないが釈迦無尼の教えはとても魅力的である。まず信仰ではなく理解を教え、疑問を唱えることをよしとする。そしてまた現実的である、自分を一人の人間であるとし、宇宙の神秘を解こうとしたりもしない。そして上記のように、宗教が陥り易い、偶像崇拝等の傾向も見通していた。 ただ、当時の原文のまま教えが続くのは時が許さないのか。