色々

  • 自動二輪の教習に通いだす、400ccのバイクはひたすらに重い
  • 合気道を始めてみた、今はひたすら投げられる。
  • ピアノのレッスンを本当に久しぶりに、ただ人の前に弾くのとは違った緊張感 

色々あるようだけどやはり最近は時間がたくさんあり、TVも新聞も読む暇もたっぷりあるの今日このごろなのです。しかし逆に新聞もTVも無ければよいと思うことも。物騒な話がとても多いような気がする。
今日は通り魔事件が堺市で起こった。この手の事件は実際日本特異なものではないんだろう。人口10万余りのイギリスの小さな大学町でも地元紙を広げれば、そういう通り魔事件は起こっていた。ただ少し昔まで、一見なんの目的も無い異常性を持つこのような事件を日本特有のものと見ていた時期があった。でも段々とこれは日本における自分が外国にいる場合に比べてこういうものに敏感なのではないかと思ったりもする。


一つにはそれは、こういう事件が母国で起こっているという点。日本という生活環境に僕は或る種、「期待」のようなものを抱いているのかもしれない。なにか、こういう事件が似つかわしくない「日本のよさ」を日本に求める自分があるがために余計にこういうことに敏感になるのかな。外国でマナーが悪い、治安が悪いと見たり聴いたりしても、それを身に迫る危険、つまり物騒だと感じたことは少ない。それに対して、日本は自分がこれから住む場所であり、家族も住む場所である、対岸の火事ではないと感じるからなのだろうか。


二に、外国に住んでいるときにはほとんどTVを見ないという点もあるのではないか。TVや新聞、特にTV、を熱心に読んでいるのはたぶん日本にいるときだけだとおもう


物騒な「気がする」こういう感情を覚えさせるのも、ニュースという媒介ならではの疑似体験ならでは。実際身の周りに起こったことではなくとも、そういう事実が何処かで起こったという事実を知ることで実際に物騒だと感じてしまう。それによって周りを見る目に変化が起こるような気がする。なぜそれでも、生活を送っていけるのだろう?
僕らが実際外に出て、人と交われば、そこにいるのは、よほどのことが無い限り、僕らと同じような人、つまり安心できる人であることがわかり、安心するのだ。しかしまた、新聞やTVからだけの景観を持ってすれば、家から一歩でることは恐怖でさえあるのじゃないだろうか。


話は思い切り飛んで、「通販カタログ生活」という雑誌があるのだけど、結構すきな読み物。これは商品カタログなのだけど商品の紹介に終始しなく、多くの記事世も読み物がある。それも、僕の興味関心とかぶるテーマ。そこでは電車マナーについてのアンケート記事があった。迷惑行為やマナー違反にどう対処するか、意見の相違が面白かった。危険なので注意しない人もいれば、正しいことは正しいこととして注意するか。自分ならどうであろう?